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96: ダイアローグ

January 31, 2021

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Indiegogo を2020年末付で退職した。4年と5ヶ月の在籍となり、勤め先としては人生で一番長い所属であり、最初に勤めた純粋(?)なアメリカの会社だった。いまいち得体の知れない自分を拾ってくれて、小さな会社ながら永住権の取得をサポートしてくれ、十二分に評価をして貰えて、30代の前半を実りのある時間にしてもらえたと思う。

"純粋な"としたのは、日本に何も由来しないという意味であって、民族やそういうものを指して何か表したいわけではない。今まではアメリカで暮らしていながらも日本人に創業された会社であったりで、どこか「アメリカで働いています」と自信を持って言えない状態を脱したことを表現するのに使っている。Literally ではなく Technically な感じ。

アメリカで暮らし、働くというのはこういうことであるというのを何もわからないまま入ったこの職場での体験は全てが初めてで、これがどのくらい共通のことであるかはわからないが、世に言われるシリコンバレーのスタートアップでのソフトウェア開発におけるエピソードをありありと想像できるくらいには、それと近しいことを自分の目で見ることができた。多くの人は17時までしか働かないし、趣味でコードを書くことは稀、2年を過ぎると誰が転職してもおかしくないし、個人的なレイオフも組織的なレイオフも淡々と起きて隣の席の同僚が突然居なくなる。職位はラダーがしっかりと決められていて、ブートキャンプ上がりの開発者も凄い人から大変な人まで、キャパシティが無限にあるエンジニアリングマネージャ、しっかりと気を払われ続けるダイバーシティとインクルージョンといくらでも小話に切り出せることを見てきた。きっとこの先は普通の出来事のように感じるようになるのだろう。日本語で得られる、多くのアメリカのソフトウェアエンジニアに関する情報は大きく立派な企業のことばかりであったので、そことの違いや共通点も楽しんでいた。

典型的で勤勉な日本人というか、仕事以外でもコードを書いちゃうタイプだったので、開発職の面で躓くことも少なく、定期的な評価については在籍中ずっと非常に良かった。上司のレビューにしても、360度評価にしても、ベタ褒めを受け取り続けたのは日々言語と文化の違いで苦しむ自分を救ってくれた。当初は、生活をひとつ便利にしたくらいで「世界を変えた」というような世界観なのだと穿って、褒められてもお世辞みたいなものだから真に受けてはならぬと思っていたが、悪い評価が集まる人、何年居ても給料がずっと上がらない人みたいなゴシップにどこかで触れたときに、一概にそういうものでもないと理解した。

具体的な報酬はというと、前職(日本企業での給与水準)までの倍近くになり、半期のレビューの度に増え、年で10%から15%くらいは上がり続けて、最終的には他社に同額のベースサラリーで転職するのはなかなか難色を示されるくらいになった(細かい額を隠すつもりではないけど、おおっぴらにして変な注目を得るのも悲しいのでビールをおごってからDMをくださるくらい興味のある方にお伝えします)。ただ、上場企業でもなければ、大儲けしている会社でもないので、お金になることが保証されている株もボーナスもなく、あまり夢のあるものではなかった。折に触れて、そろそろ辞めるつもりであると上司に伝えたときは、給料なりで引き止められることはあるか?と尋ねてもらえていたのでもう少し上を見れたのかもしれない。それはヘラヘラして流していた。

職位は入社時に無印の Software Engineer(その後"I", "II"に分割があり、給与額的には "I" に相当していた)だったのが半年後に "II" をスキップして Senior Software Engineer 、2年開けて Senior Software Engineer II (これは自分の上の Pirncipal の立場の人を動かせなかったために急造された)と、悪くはなさそうな昇進を重ねられた。タイトルにない立場としてはフロントエンドのアーキテクトや、何かプロジェクトに加わることがあったら技術側でのリードをやっていた。決済の周辺に関わることも多かった。キャリアとしては思いっきりバックエンド寄りの方から来たはずが、最後はデザインシステムを組み、フロントエンドの足場を全て世話するようなポジションに居た。趣味で追っかけていたこの領域を、偶然誰もやりたがらなかったので、気づいたら仕事になっていた。10年前はサーバをデータセンターに積み込んで keepalived を設定していたところから随分フロントの方に来てしまった。

ソフトウェアを書くところ以外は全てが苦労の連続だった。チームビルディングやプロジェクトマネジメントといった文脈でのコミュニケーションは常にわからないことばかりで、うまく振る舞えないことに落ち込むことが多々あった。会話の端々で文化的な差異なのか個人的な違いなのかわからずに戸惑うし、受け取った英語を処理している間に時間は先に進んでしまう。採用のためのインタビューや、プロジェクトをリードするのに必要な発話の度に心拍数は上がり、それどころか通勤中やエレベータで同僚に会う度に振る舞いに困り、ランチの輪への入り方は未だによくわからないまま。そういった中でも、個人的に良くしてくれる人というのが何人か居て、本当に助けられた。職場が別れた後も一緒に飲みに行ったり、たまに近況を教えあっている仲になっているので、ただ良い人的な振る舞いをしてくれていたわけではないのだと信じたい。転職先からのリファラルチェックにも快く応じてもらえたときには涙が出た。

最後の1年半は社長が代わり、大きく会社の戦い方を変えていく様を見ることができたのと同時に、日本の投資家やクラウドファンディング事業者等の関わりに巻き込まれる機会もあり、WebPay の頃に自分が居た日本のスタートアップまわりのことを思い出すことも多く面白かった。

明確に退職を決めてから転職活動を始めたわけではなく、他社でも同様に働ける能力を持っていないのではないかという不安から、1年半ほど新しい職場候補たちとコミュニケーションを続けていた。Indiegogo に入る時の転職活動の「とにかく応募して、どこかに引っかかることができれば幸い」というものだったのが、自分が働きたいところを選んで交渉し、自分の実力やスキルセットを都度評価されるのを繰り返すのはなかなか堪えたが、運良く巡り合わせがあり、上司と人事に辞意を伝えたのはオファーレターを貰った12月の2週目の終わりで、引き継ぎや置き土産のために大晦日の前まで働いてしまうくらいに、Indiegogo は去る理由を多々見つけながらも大事な場所となった。

2021年からの30代の後半はもっと小さくて若いスタートアップに参加させてもらうことにした。LinkedIn で次の所属を表明してしまうと、前の職場のことなんてあっという間に忘れてしまいそうだと思って慌ててこれを書いている。